本コーナーの目次
- 連邦最高裁創設時の状況
- 連邦最高裁と政治のかかわりの歴史
- 連邦最高裁裁判官の任命過程
1.連邦最高裁創設時の状況
【要約】
1787年に採択された合衆国憲法は、連邦最高裁判所の設立を定めましたが、具体的な組織や権限は明示されていませんでした。1789年の第1回連邦議会でこの点が議論され、1789年裁判所法が制定され、連邦最高裁判所には首席裁判官と5人の陪席裁判官が置かれることになりました。ワシントン大統領は、ジェイを初代首席裁判官に任命しました。
連邦最高裁の初回開廷は1790年2月に行われましたが、取り扱う事件は少なく、存在意義も希薄でした。1793年のChisholm v. Georgia判決は、一州の住民が他州を訴えることを認めましたが、この判決は政治的批判を受け、修正11条が制定されました。当時の裁判官は巡回裁判所の業務も担当しなければならず、任務は過酷でした。
創設時の連邦最高裁は現在ほどの重要性はなく、裁判官の地位も低く評価されていました。
1787年に憲法制定会議で採択され、翌年9邦の批准によって成立した合衆国憲法は連邦最高裁判所について、3条1節で「合衆国の司法権は、1つの最高裁判所、および連邦議会が随時制定し設立する下位裁判所に属する。」と定めていましたが、その具体的な組織・権限は明らかではありませんでした。そこで、1789年の第1回連邦議会でその点が議論され、1789年裁判所法が制定されました。同法は、全米に13の地方裁判所を設置するとともに、巡回裁判所を3つ設けるものでした。そして連邦最高裁判所の構成について、首席裁判官と5人の陪席裁判官を置くとしました。
1789年9月24日に、1789年裁判所法に署名したワシントン(George Washinton)大統領は、早速ジェイ(John Jay)を初代首席裁判官に任命するとともに、陪席裁判官として、ウィルソン(James Wilson)、ルトリッジ(John Rutledge)、カッシング(William Cushing)、ハリソン(Robert Harrison)、ブレア(John Blair)を任命しましたが、ハリソンが辞退したため、代わりにイアデル(James Iredell)を任命しました。
1789年9月24日に就任したジェイは、連邦最高裁の第1回目の開廷期日を1790年2月1日としましたが、他の裁判官が不便な交通事情のため到着が遅れることになり、開廷期日は翌日に延期されました。最初の連邦最高裁の開廷場所は、ニューヨーク市の
商業取引所の建物(Merchants Exchange Building)でした。
創設当初の連邦最高裁が取り扱う事件は少なく、連邦最高裁が開かれるのは2月と8月の数週間ずつだけでした。したがって、創設当初の連邦最高裁が下した著名な判決は多くありませんが、その中で1793年のChisholm v. Georgia判決は、一州の住民が他州に対する訴訟を連邦裁判所に提起できると判示したもので、連邦最高裁が政治とのかかわりをもった最初の判決といわれます。そのような判決に対する批判は強く、その結果一州の住民が他州に対する訴訟を連邦裁判所に提起することは、被告となる州の同意がない限りできないとして、同種事件に対する連邦裁判所の管轄権を否定する修正11条が制定されることになりました。
連邦最高裁の取り扱う事件が少ないということは、その存在意義も希薄になりがちなことを意味します。そのため連邦最高裁裁判官のステータスの低さから、裁判官への任命を望む者は多くないという状態でした。そのような状況は、さらに1789年裁判所法によって連邦最高裁の各裁判官に、年2回全米の主要都市にある巡回裁判所を馬車で訪れ巡回裁判所の裁判官とともに裁判を担当しなければならないという過酷な任務が課されることによって悪化しました。
これまで見てきたように、創設時の連邦最高裁は、現在の連邦最高裁の持つ重要性とは比較にならない低い制度的評価しか存在せず、連邦最高裁裁判官の判断や行動が注目を集めることは少なかったといえます。
2.連邦最高裁と政治のかかわりの歴史
【要約】
連邦最高裁は政治に直接関与するわけではありませんが、その判決は大きな政治的影響を及ぼすことがあります。連邦最高裁は具体的な事件を通じて憲法や法律を解釈し、その結果が国家体制に影響を与えます。以下の判例がその例です。
Marbury v. Madison(1803年): 連邦最高裁が連邦議会の制定する法律に対する違憲審査権を確立しました。これにより、連邦最高裁は憲法の最終解釈機関となりました。
Dred Scott v. Sandford(1857年): 黒人奴隷が自由を求めた事件で、連邦最高裁は黒人は合衆国市民ではないと判断し、奴隷制を支持する結果となりました。この判決は南北戦争の原因の一つとされています。
ニューディール期の違憲判決: ルーズヴェルト大統領の経済政策であるニューディール法を連邦最高裁が違憲と判断しました。大統領は連邦最高裁の改革を試みましたが、成功しませんでした。この結果、連邦最高裁は経済的自由に対する規制立法に対する態度を変えざるを得ませんでした。
Brown v. Board of Education(1954年): 人種差別的な公立学校の分離政策が修正14条に違反するとして違憲と判断されました。この判決はアメリカの人権史において画期的なものでした。
これらの判決を通じて、連邦最高裁は政治と深く関わり、アメリカの国家体制や社会の在り方に大きな影響を与えてきました。
連邦最高裁と政治とのかかわりといっても、連邦最高裁が直接政治に対して働きかける活動をするというわけではありません。連邦最高裁も含めて連邦裁判所は、司法権の行使について合衆国憲法によって事件性・争訟性の要件が求められているため、勧告的意見(advisory opinion)は認められないとされています。したがって、大統領などから法の内容に対して抽象的な形で解釈内容を明らかにするように求められても、それにこたえることはできません。ただ、具体的事件の判断に必要な限りで、連邦最高裁は憲法や法律の解釈を示し、それを適用して事件を解決することができます。
連邦最高裁が具体的事件解決のために下す法解釈、とくに憲法解釈は、国家の基本的な構造や運用のあり方を定め、基本的な人権を保障するという憲法の性格およびアメリカの領土の広範さや地域的な相違などを背景に紛争が政治化しやすいという特性のために、大きな政治的影響を及ぼし、アメリカの国家体制の基礎を揺るがす事態も見られました。ここでは、そのような連邦最高裁判決として、5つあげておきます。
第1に、1803年のMarbury v. Madison判決があげられます。この事件は、1800年の大統領選挙をめぐるフェデラリストと反フェデラリストの政治的抗争の中から生じたものです。1800年の大統領選挙に敗れたアダムズは、連邦政府内に影響力を残すために法律を制定して裁判官職を創設し、その職にフェデラリスト支持者を任命しようと図りました。しかし、時間的切迫のために任命状の交付が間に合わず、新たに大統領に就任した反フェデラリストのジェファーソン大統領は、国務長官のマディソンに命じて任命状の交付を控えさせました。そこで、裁判官職に任命されたマーベリー(William Marbury)が、マディソンに対する職務執行令状の発給を求めて連邦最高裁に訴え出たのです。
マーシャル(John Marshall)首席裁判官執筆の法廷意見は、事件の論点を①マーベリーは任命に対する権利を有するか?②もし権利を持ちその権利が侵害されたとしたら、法律によって救済されるべきか?③救済されるとすれば、適切な救済は連邦最高裁による職務執行令状か?の3点に絞って、それに対する判断を示しました。3つの論点の中で最も重要なのは、最後の論点でした。連邦最高裁がそもそも職務執行令状に関する第一審管轄権を有しなければ、①と②の論点は不必要となるものであったからです。
マーシャルが、このような判決の論理構成を取ったのは、①、②でマーベリーは権利を持っているにもかかわらず、ジェファーソンとマディソンによって任命状が交付されず、権利に対する救済が与えられていない状況にあるという批判を示すためでした。そのような批判を示しつつ、他方マーシャルは連邦最高裁から職務執行令状を得ることができるとする1789年裁判所法13条は、連邦最高裁判所の第一審管轄権を制限する憲法3条2節に反し違憲であると判示しました。それによって、マーベリーの訴えを棄却したのです。
Marbury判決の意義は、結果的にはマーシャルの政敵であったジェファーソンに形式的な勝利を与えつつも、それよりはるかに重要な連邦裁判所の権限として連邦議会の制定する法律に対する違憲審査権を認めたことでした。違憲審査権は、連邦最高裁のいわば「伝家の宝刀」の意味を持つことになりました。この権限を有することによって、連邦最高裁は憲法の最終的な有権解釈を行う機関として、三権の一角において強固の地位を占めるようになったのです。
連邦最高裁が違憲審査権を行使して、連邦議会の立法を違憲とすることは、民主的な基盤を有する議会の判断を覆すことを意味します。その点で、ひとたび就任すれば終身任期で国民の民主的コントロールに服さないという意味で、非民主的な機関である連邦最高裁に違憲審査権を認めるべきか否かは、現在でも議論のあるところです。ただ、ここで強調しておかなければならないのは、連邦最高裁はその後の事件で違憲審査権を行使して、連邦議会や大統領との関係において政治とのかかわりを次第に大きく持つようになったことです。
第2に、連邦最高裁が中央政治とはじめて強くかかわった事件として、1857年のDred Scott v. Sandford判決があげられます。この事件は、ミズーリー州の黒人奴隷スコットが主人の転勤に伴い奴隷制の禁じられる自由州や奴隷制が禁じられている自由準州などを旅しミズーリー州に戻った後に、自由州や自由準州に居住したことを理由にもはや奴隷ではなく自由黒人であると主張して争った事件です。事件は当初ミズーリー州の裁判所に係属していましたが、その後スコットの所有者がニューヨーク州の住民に移ったため、州籍相違管轄権(Diversity Jurisdiction)に基づき連邦裁判所で判断されることになりました。
連邦最高裁は、1857年3月6日にスコットの訴えを退けました。この事件の争点は①黒人は合衆国の市民といえるか、②自由州と奴隷州の位置づけにかかわる1820年の「ミズーリの妥協(Missouri Compromise)」は合憲か、という2点でした。判決を執筆したタニー(Roger Brooke Taney)首席裁判官は、①について、黒人は州の市民権を得て投票などができるとしても、合衆国の市民となることはできず、連邦裁判所に訴訟を提起することはできないと判示しました。したがって、この時点で、事件に対する管轄権を連邦裁判所は有しないとして訴えをしりぞけることもできました。
しかし、タニー首席裁判官は、さらに事件にかかわる争点であるとして、「ミズーリーの妥協」の合憲性に踏み込み違憲としました。連邦議会は、準州 における奴隷制を廃止したり禁止したりする権限を有しないから、「ミズーリーの妥協」は連邦議会の権限踰越であるとしました。そこでは、奴隷制に反対する憲法上の主張は一顧だにされませんでした。
タニー首席裁判官は、この判決によって奴隷制をめぐる南部と北部の対立を解決しようとしたのですが、そのねらいとは大きく異なりこの判決は、奴隷廃止を支持する北部の人々を激高させました。とくに判決が、黒人は合衆国市民となることはできないとし、その際に憲法起草者たちが黒人は憲法によってつくられた新政府の与える利益や保護の対象となる市民ではないとして、疑義の多い独自の歴史的判断に依拠していたことがやり玉にあがりました。判決は、南部では奴隷制を維持すべきとする南部の主張が合衆国の法となったとして歓迎された一方、北部では南部の主張を代弁するにすぎないとして、強い非難を受けました。
Dred Scott判決は、奴隷制をめぐる南北の対立を一層深刻化させ、南北戦争の契機となったとされます。とくに判決を執筆したタニー首席裁判官に対して、先例を無視している、歴史をゆがめている、憲法解釈を誤っているなどと批判が向けられ手います。そのため、連邦最高裁の歴代首席裁判官の中で、最も評判の悪い人として評価されています。ただ、Dred Scott判決は7対2の判決であり、判決に加わった裁判官が他に6名いたことも注目しておくべきでしょう。いずれにせよ、連邦最高裁は、この判決によって奴隷制の廃止という重大な政治的紛争に対して、一方の当事者に与する形で強くかかわったといえます。
第3に、連邦最高裁が政治との関わりの中で、政治部門の判断に対して真っ向から挑戦し、阻止しようとしたものとして、ニューディール期の連邦最高裁の多くの違憲判決をあげることができます。ニューディールの時期は、1929年の株式の大暴落によって引き起こされた経済的大恐慌に対処するために、民主党のルーズヴェルト(Franklin D. Roosevelt)大統領によって進歩的な政策がとられました。しかし、連邦最高裁はそれらの政策を実現するための法律を違憲とする一連の判決を下したのです。
この時期の代表的な事件として、ここではニューディール政策の柱石とされる2つの法律である全国産業復興法(National Industrial Recovery Act, NIRA)と農業調整法(Agricultural Adjustment Act, AAA)を違憲とした2つの事件を取り上げます。第1の事件は、NIRAを違憲とした1935年のSchechter Poultry Corp v. United Statesであり、第2の事件は、AAAを違憲とした1936年のUnited States v. Butlerです。
Schechter判決で争われたNIRAは、1933年に制定された法律で、その内容は政府の監督下で業種別に公正競争規約(codes of fair competition)の作成を行わせ、それを反トラスト法の適用外に置き、生産制限や価格規制を認めるというものでした。Schechter事件で、連邦最高裁は全員一致の判決によって、連邦議会は立法権を大統領および産業団体に広範に委任するものであって立法権の非委任法理に反し、またNIRAの公正競争規約は州内の活動を規制しようとしたもので、それは連邦議会に与えられている州際通商規制権限を超えたものであると判断しました。
Butler判決で争われたAAAも1933年に制定された法律で、その内容は大恐慌で農産物価格が著しく低下したため大幅に落ち込んだ農家の購買力を他産業従事者並みに回復させるような農産物の価格水準を実現しようというものでした。AAAは、そのための手段として農産物品に農産物加工税を課し、それによって得られた基金を、作付面積を減らすことに同意した農民に再配分する方法をとりました。Butler事件で、この課税が連邦議会の課税および支出権限を超えるものか否かが争われました。この点について連邦最高裁は違憲と判断しました。連邦最高裁は、連邦議会は合衆国の一般福祉のために課税する広範な権限を有するとしたものの、連邦議会は課税および支出権限を、修正10条により州に留保された領域を規制するために行使することはできないと判示しました。
連邦最高裁は、その後も多くのニューディール立法を違憲と判断しました。これに対して、ルーズヴェルト大統領は、さらなる重要なニューディール立法が違憲と判断されることを阻止するために、連邦最高裁の判断をかえる必要を認識していました。ただ、当時多くの人々は違憲判決に不満ではあったものの、連邦最高裁それ自体に対してはなお不可侵の存在と認識していたため、どのような方法で連邦最高裁を変化させるかについて、慎重な考慮と配慮が必要でした。そのような中で、ルーズヴェルト大統領が着目したのは、当時の連邦最高裁裁判官9名の平均年齢が71歳を超えていたことでした。
1937年2月5日、ルーズヴェルト大統領は突如連邦議会に対して、現在70歳を超える連邦最高裁裁判官1名に対してもう1名の裁判官を任命する権限を与えるように求めました。これがいわゆる「連邦最高裁判所パッキングプラン(court packing plan)と呼ばれるものです。ルーズヴェルト大統領は、その要求の根拠として、現在の連邦裁判所の抱える事件を処理するには、いまの裁判官だけではその能力を超えるものがあり、終身任期制の下で連邦最高裁を活性化するためには、より若い血が必要であるとしたのです。ルーズヴェルトの考えは、権力分立、司法権の独立などの憲法上の疑義をめぐる議論ばかりではなく、大統領権限を過度に拡大し悪しき政治的先例を残すものになるなどの政治的な批判も引き起こし、アメリカ中を混乱に陥れました。
当初、パッキングプラン法案は成立するものとみられていました。ルーズヴェルト大統領は1936年の大統領選挙で圧勝するとともに、連邦議会でも民主党が上下両院で圧倒的多数党になっていたからです。しかし、法案に対して当時の連邦最高裁のヒューズ(Charles Evans Hughes)首席裁判官が、上院議員に宛てた異例の書簡の中で法案に反対したことや、連邦最高裁がWest Coast Hotel Co. v. Parrishで、ニューディール立法を支持する判断を示したなどから、法案に対する支持は少なくなり、結局廃案となりました。
法案をめぐる議会での168日に及ぶ審議は、最終的には法案の不成立という結果になったものの、ニューディール立法の合憲性は確立し、以後アメリカはリベラル色の強い国家への変貌を遂げていくことになりました。その意味で、ルーズヴェルト大統領はパッキングプランという戦術では成功しなかったものの、戦争には勝利しました。その結果、アメリカは国家が経済や社会保障の分野で積極的な役割を果たす新たな政治体制を確立することになりました。それは、1937年の憲法革命(constitutional revolution of 1937)とも呼ばれる名前で呼ばれることになりました。
もっとも、非常に高い国民の支持を有するルーズヴェルト大統領でさえ連邦最高裁の改革をなしえなかったことは、連邦最高裁の改革の難しさを強く印象づけることにもなりました。実際その後はつい最近まで、連邦最高裁の改革論は議論の対象とはなりませんでした。もっとも、連邦最高裁は結果として制度的変革を免れることになりましたが、長きにわたって経済的自由に対する規制立法を違憲としてきた方向を大きく変換せざるをえなくなり、その主たる活動を精神的自由に対する規制の合憲性をめぐる事件に移さざるをえなくなりました。
第4に、連邦最高裁がアメリカの政治において長く争われてきた人種的平等に関する分離政策の形成過程に参与した事件として、Brown v. Board of Educationがあげられます。Brown判決は、公立学校における人種別学制が修正14条1項に違反するとした1954年の判決です。修正14条1項は、いかなる州もその管轄内にある何人に対しても法の平等な保護を拒んではならないと定めています。
Brown事件は、カンザス州トペカ市に住んでいたブラウンという少女が近所の白人用の小学校に入学使用としたところ拒否され、自宅から遠く離れた黒人用の小学校へ入学しなければならなくなったために、父親が黒人の人権保護団体であるNational Association for the Advancement of Colored People (NAACP)と相談し、トペカ市の教育委員会を訴えたというものです。
NAACPは、1940年代後半から人種差別撤廃運動の焦点を、差別的な諸州の公立学校制度について連邦最高裁の違憲判決を勝ち取ることに絞り込んでいました。カンザス州もそのような一州でした。この事件で、NAACPはトペカ市の公立学校における人種差別を禁じる差止命令の発給を求めたのです。その理由として、NAACPは、施設や教員らを含めて学校での教育が白人に比べて黒人には劣ったものしか提供されていないことや、そもそも白人と黒人を分離して教育する人種別学制そのものが合衆国憲法修正14条の平等保護条項に違反すると主張しました。
白人と黒人の分離が憲法に反するか否かという点については、重要な連邦最高裁の先例が存在しました。それは、列車の車両について白人と黒人が分離した施設を利用することを求めるルイジアナ州の分離車両法(Separate Car Act)の合憲性が争われた1896年のPlessy v. Ferguson判決です。Plessy判決は、白人用と黒人用に施設を分離するように命じる立法は、その施設が平等なものであれば修正14条の平等保護条項には違反しないとする、いわゆる「分離すれども平等」の法理を明らかにしていました。そこで、Brown事件では、この「分離すれども平等」の法理が公教育にも適用されるか否かが争われたのです。
Brown事件に対して、連邦最高裁は、1954年5月17日にウォーレン(Earl Warren)首席裁判官の執筆する全員一致の判決で、人種的に分離された公立学校が本質的に不平等であって「分離すれども平等」の法理の範囲を超えているかについて判断するためには、公教育における人種分離の与える効果を検討することが必要であるとしました。そして、その効果として、人種のみを理由として黒人の児童を分離された学校で教育する州の政策は、黒人児童の学習意欲を減退させ、彼らから人種的に統合された学校での教育の機会を奪っているとしました。ウォーレン首席裁判官は、このような効果の存在について社会科学の成果により明らかであるとした上で、結論として「公教育の分野において、『分離すれども平等』は認められない。分離された教育施設は本質的に不平等である」と結論づけたのです。
Brown判決は、今日ではアメリカの人権史上画期的なものと評価されています。もっとも、判決が下された当初は、人種差別撤廃に反対する多くの南部諸州において、判決に対する抵抗が予想されました。そこで、1954年のBrown判決は、人種別学制が違憲であるという結論だけを述べ、具体的な救済については翌1955年のいわゆるBrownⅡ判決で判断するという姿勢を示しました(この点で、1954年のBrown判決はBrownⅠ判決といわれる)。BrownⅡ判決で示された救済は、連邦地裁と地域の教育委員会が公立学校の統合に向けて、「可及的かつ速やかに(with all deliberate speed)」、すなわちじっくりと考えた上で急がずに、適切な手段をとるようにというものでした。
しかし、その後の人種統合の道程は平坦なものであったとはいえませんでした。たとえば、1957年にアーカンソー州リトルロック市では、白人用の公立高等学校に黒人生徒9名が、裁判所の判決に基づき登校しようとしたところ、州知事の命令によって州兵が動員されて入校を阻止されるという事件が発生しました。この事件では、最終的にはアイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)大統領が、連邦軍を派遣して入校させるという強硬策をとることによって、一応の解決を見ることになりました。もっとも、南部ではその後も白人児童を私立の白人用学校に登校することを援助する学校選択(school choice)プログラムなどが広まり、最終的に南部の学校でも人種分離が見られなくなったのは1960年代後半になってしまいました。
このようにBrown判決で示された公立学校での人種別学制の廃止までには多くの時間を要しましたが、今日ではこの判決はアメリカの人権史上画期的な判決という地位を得ています。それは、Brown判決の論理が、公立学校における教育にとどまらない射程を持っていたためです。それは、白人と黒人を分離すること自体が不平等であるという認識を多くの分野にもたらし、また多くの領域で差別に直面する黒人の権利に対する人々の意識を高め、公教育にとどまらない分野での人種差別を撤廃する政策の実現を求める要求がさまざまな回路を通って政治過程に向けられようになったからです。その意味で、Brown判決は、建国期以来アメリカの宿痾ともいうべき人種差別を撤廃し、人種統合へ向けた政策を形成する上で大きな指針を示し、導いていったということができます。
第5に、分断化が進むアメリカ政治の中で、保守派と緊密に結びつく形で憲法解釈を展開する連邦最高裁の姿勢を強く示したのが、Dobbs v. Jackson Women’s Health Organizationです。Dobbs判決では、ミシシッピー州法である妊娠期間法(Gestational Age Act)の合憲性が争われ、違憲と判断されました。妊娠期間法は、受胎15週以後のすべてのアボーション(abortion)を禁ずるものですが、胎児は24週目に体外での生存可能性をうるといわれていることと比べると、15週目はそれよりもかなり前になります。アボーション規制としてはかなり厳しいものといえます。
妊娠期間法が効力をもったその日のうちに、州のアボーションクリニックであるJackson Women’s Health Organizationが、妊娠期間法は違憲であるとして一時的差止命令を求める訴訟を連邦地裁に提起しました。連邦地裁は、「州は胎児が生存可能性を有するまで、アボーションを禁止することはできない」として、原告勝訴の略式判決を下し、差止命令を発給しました。また、連邦高裁も連邦地裁の判決を支持した上で、1973年のRoe v. Wade判決以後の連邦最高裁の先例は、州は生存可能性をえる以前のアボーションについて「規制」をすることはできるが、アボーションを「禁止」することはできないとしました。
連邦最高裁のアボーションに関する先例としては、Roe判決と1992年のPlanned Parenthood of Southeastern Pennsylvania v. Caseyが存在していました。Roe判決は、胎児が生存可能性をほぼ獲得する前の妊娠第二期が終わる頃までのアボーションを受ける憲法上の権利があるとしました。そして、Casey判決は、Roe判決の基本的な判断(essential holding)を維持し、生存可能性を得るまでのアボーションの権利に対して、その権利を行使するか否かについて決定を下す女性の能力に不当な負担(undue burden)を課す規制をなすことは、権利に対する不当な介入であるとしました。
このような先例の存在を前に、連邦最高裁での審理における争点は絞り込まれ、生存可能性を得るまでの時期におけるすべてのアボーションを禁じることは違憲か否かに限定して判断されることになりました。連邦最高裁に上訴したミシシッピー州の主張は、Roe判決およびCasey判決は憲法上何ら言及されていない生存可能性を得るまでのアボーションの権利を認める点で、はなはだしく誤っている(egregiously wrong)から破棄されるべきであり、かりにそこまでではないとしても妊娠期間法はCasey判決でいう不当な負担を課すものではないとするものでした。
連邦最高裁の判決は、2022年の6月24日に下されましたが、それ以前の2月にアリトー(Samuel A. Alito)裁判官の執筆する判決の第1次草稿が外部に流失するという極めて稀な事件もあり、判決がRoe判決とCasey判決を覆すことはある程度予想されていました。判決は、ミシシッピー州の妊娠期間法を6対4で支持した上で、さらに踏み込んでRoe判決とCasey判決について、はなはだしく誤ったものであるとして5対4で破棄しました。
法廷意見は、まずRoe判決が憲法上明文で保障されていないアボーションの権利をプライバシーの権利に含まれ、プライバシーの権利は修正14条のデュープロセス条項によって保障されているととらえており、またCasey判決もアボーションの権利を直接デュープロセス条項に基礎づけているとしました。そして、このような憲法上明示的に保障されていない実体的権利をデュープロセス条項によって基礎づける、いわゆる実体的デュープロセス論が認められるためには、これまでの先例で確立し確認された2つの要件を充たす必要があるとしました。2つの要件とは、第1に争われている権利が、客観的に見て「アメリカの歴史と伝統に深く根付いている」ことであり、第2に当該権利が「秩序付けられた自由の概念の中に黙示的に」含まれていることであるとしました。
アリトー裁判官は、Roe判決とCasey判決が保障したアボーションの権利が、この2つの要件をいずれも充たしていないことを、自らの歴史的な理解に基づく評価によって示しました。まず、第1の要件について、Roe判決が下される20世紀後半まで、アボーションはほとんどの州の違法とされていたとされます。1868年に修正14条が批准されたとき、4分の3の州では、すべての段階におけるアボーションを犯罪として取り扱っていたとします。
さらに、アボーションについて少なくとも妊娠のある段階について、コモンロー上も犯罪と考えられていたとし、その範囲はその後の制定法による規制に伴って広げられてきたとします。コモンローの下でのアボーションの処罰の程度は異なっていたとしても、コモンロー上妊娠のいかなる時期であれ、アボーションが許されることは決してなかったのであり、ましてや権利として見られることはなかったとされます。
このような歴史的評価の上にたって、アリトー裁判官は、Roe判決が「歴史を無視したか誤って述べており」、Casey判決もその誤りを正さず依拠したとし、そこから引き出される不可避の結論は、「アボーションの権利は、アメリカの歴史と伝統に深く根差したものではない。それどころか、アボーションを犯罪として処罰することによって禁じるという長く守られてきた伝統は、もっとも初期のコモンローの時期から(Roe判決の下された)1973年まで引き継がれてきた」というものでした。
アリトー裁判官は、つぎに第2の要件である秩序付けられた自由の不可欠な部分であるかという点についても、アボーションの権利は要件を充たしていないとします。まず、プライバシーの権利を修正14条の個人的自由の概念に基礎づけることが誤りであるとしました。さらにRoe判決の理由付けの不備として、先例としてプライバシーの権利ないしデュープロセス条項の保障する自由に暗黙に含まれるとして生殖、婚姻、家族などに関連する権利などが引用されているが、それらの権利はいずれも「潜在的な」または「胎児の」生命の破壊(destruction)を含むものではない点で、Roe事件に類似するものではないとします。さらに、Casey判決で示唆される自己決定の権利(right to autonomy)は、あまりにも一般的であり「秩序付けられた自由」の概念に暗黙裡に含まれたものとみることはできないとしました。
このような法廷意見に対しては多くの批判がなされてきましたが、その中でもとくに次のような3点が注目されます。第1に、明文の保障規定のないデュープロセス条項を根拠とする憲法上の権利として主張されたとしても、それが保障される可能性は低いということです。アリトー裁判官は、デュープロセス条項を根拠に主張される新たな権利に、この判決で指摘された2つの要件を充たすことを求めました。このことは、2つの要件を充たさないときには、その権利は憲法の保障領域に含まれず、またそのような権利に対する規制には緩やかな合理性の審査基準が適用され、合憲とされるということを意味しているということです。
第2に、Dobbs判決の射程がかなり広く及ぶのではないかということです。判決の射程について、アリトー裁判官は「判決はアボーションの権利に関するものでありその他の権利に及ぶものではない。本判決のいかなる点についてもアボーションに関しない先例に疑いを投げかけるものではない」と強調しています。しかし、保守派裁判官の中心人物とされるトーマス(Clarence Thomas)裁判官の同意意見は、この判決の射程が婚姻カップルによる避妊具の使用の権利を認めた1965年のGriswold v. Connecticutや異人種間の婚姻の権利を認めた1967年のLoving v. Virginiaなど1960年代の判決からさらに同性婚の権利を認めた2015年のObergefell v. Hodgesに至るまで、生殖、婚姻に関する権利を認めたこれまでの判例に及ぶ可能性を指摘しています。
第3に、これまでそれぞれ50年と30年先例として存在してきたRoe判決とCasey判決を覆すことによって、裁判所の判例の安定性に疑義が生まれるとともに、裁判所それ自体の信頼性が失われるのではないかということです。Casey判決が、Roe判決の核心的部分を維持したのは、先例拘束性の原理によるものでした。先例はそれを覆す強い必要性が存在しない限り、そのまま維持されるべきであると考えられてきました。アリトー裁判官は、Roe判決とCasey判決は、はなはだしく誤ったものであるがゆえに、破棄が正当化されるとしました。しかし、アリトー裁判官が、Roe判決とCasey判決は「論争を激化させそして分断を深めた」ゆえに破棄されるべきであり、アボーションの是非は人民の選出する代表に委ねるべきであるとすることは、憲法に対する最終的な有権解釈を行う機関としての連邦最高裁判所の信頼性を損なうものとみられます。
このDobbs判決で示された憲法解釈については、いま述べたような少なくとも3つの疑義が存在しますが、さらに連邦最高裁と政治との関係という観点から見た場合には、つぎのような点が指摘できます。この判決において、保守派裁判官が強固な多数派を構築したことが明らかになったということです。同意意見の中でロバーツ(John Roberts)首席裁判官は、法廷意見が一気にRoe判決とCasey判決を覆したことは、司法の判断は事件の解決に必要な範囲にとどめるべきであるという司法の抑制という基本的な原則に反するとして、6名の保守派裁判官の中で1人反対しています。このことは、逆に言えば、9名中5名の強固な保守派判事が連邦最高裁内に確立することによって、Roe判決とCasey判決を一気に覆すという保守的な司法積極主義が、今後アボーション以外の領域でもとられる可能性があることを強く示唆しているといえます。それは、かつてのリベラルな司法積極主義が批判されたように、連邦最高裁の正当性への懐疑を引き起こすことになると思われます。
3.連邦最高裁裁判官の任命過程
【要約】
連邦最高裁判所の裁判官の任命は、合衆国憲法により大統領が指名し、上院の承認を得る必要があります。具体的な手続きは以下の通りです:
1.大統領の協議:大統領は裁判官候補を指名する前に、通常上院議員と協議する。
2.指名と審議:大統領が指名した候補者は、上院司法委員会で審議される。
3.公聴会:司法委員会が公聴会を開き、FBIなどから候補者に関する記録を収集する。
4.証人の意見陳述:公聴会で、賛成・反対の証人が意見を述べ、上院議員が候補者に質問する。
5.司法委員会の勧告:委員会は指名に関する勧告案を上院本会議に提出する。
6.本会議での討論:上院本会議で指名について討論が行われる。
7.討論の制限:2017年に、討論打ち切りに必要な票数が60から51に引き下げられた。
8.本会議での投票:討論後、上院で投票が行われ、単純過半数の賛成で指名が承認される。賛否同数の場合、副大統領が決裁票を投じる。
連邦最高裁裁判官の任命について、合衆国憲法2条2節2項は「大統領は、・・・最高裁判所の裁判官を指名し、上院の助言と承認を得て・・・任命する」と定めているにとどまり、具体的な任命過程の手続については触れていません。ただ、連邦最高裁判所の裁判官の任命について、大統領と上院という2つの部門をかかわらせていることは、権力分立の観点からは注目されます。
連邦最高裁裁判官の任命に関する具体的な手続について、Guides at Georgetown Law Libraryは、つぎのように説明しています。
1.大統領は、裁判官候補者の指名を公表する前に、通常上院議員との協議を行う。
2.大統領が、裁判官候補者を指名した後、その指名は上院司法委員会による審議のため同委員会に伝達される。
3.上院司法委員会は、裁判官候補者に関する公聴会を開催する。同委員会は、通常1ヶ月程度をかけてFBIおよびその他の機関から裁判官候補者に関するすべての必要な記録を収集し受領する。(最近は、公聴会に対する注目度が高くなっており、共和党の大統領によって任命された保守派とされるトーマス裁判官のセクハラ疑惑やカバノー裁判官の性暴力などが、公聴会でその資質と関連して民主党の議員によって大きな取り上げられ、人々の関心を集めました。このような公聴会への注目は、テレビによる中継などの影響もありますが、それ以上に裁判官の指名が党派的ではないかとの懸念が背景に存在します。このような疑念から公聴会が重要視されるようになったのは、イェール大学ロー・スクールの独禁法に関する権威として知られ、裁判官としての資格にはまったく問題がないとされつつ、その保守的な憲法哲学に対して、リベラル派からの強い批判にさらされた1987年の裁判官候補者であるボーク(Robert Bork)判事の公聴会でのやりとりが端緒といえます。)
4.公聴会において、指名に賛成・反対双方の立場の証人がその意見を陳述する。上院議員は、裁判官候補者に対し、その資質、判断力および哲学について質問を行う。
5.司法委員会はその後指名に関する投票を行い、委員会としての勧告案を上院の本会議に提出する。勧告内容は、承認を求める場合、否決を求める場合、委員会としての勧告は行わない場合がありうる。
6.上院本会議で、指名に関して討論を行う。
7.上院の規則では長く指名に関する討論は無制限であり(十分な討論を行うためであるが、他方それによって議事の進行が妨害されることになるため、この慣行はフィリバスター(Filibuster、議事妨害)と呼ばれる。)、その討論を打ち切るためには上院議員定数の5分の3、すなわち60名の賛成が必要とされていた。しかし、2017年4月に、上院はこの規則について、連邦最高裁判官の指名に関する討論の打ち切りに必要な票数を60から51の単純過半数に引き下げるという重要な変更を行ないました(その変更が極めて大きなものであったため、当時上院で多数を占めていた共和党による核オプション(nuclear option)の行使であるといわれました)。
8.討論終結後、上院は指名について投票を行う。出席上院議員の単純過半数による賛成を得て、裁判官候補者の指名が承認される。賛否同数の場合には、上院議長でもある副大統領が決裁票を投じる。